いじめられているほうにも原因があるという認識を完全に論破してみる

最近、ヤフーニュースを見て驚きました。

学校の小中学生にいじめについてアンケートを行ったところ、なんと7割の人が『いじめられているほうにも原因があると思う』に◎を付けていたようです。

 

『いじめは良くないと思う』の質問には◎を付けていたので、まだ良かったのでは教師が一言。

原因はいじめられているほうにもあるけど、いじめ自体は良くないということなのか。

 

とりあえず、元心理学専攻科として一言。

……まぁ、なんと悲しいことか。

 

世の中が平和になるのはまだまだ先ということですかね……まぁ僕自体、そもそも『学校』というシステムに常々疑問を持ってはいるのですが。

 

苦しんでいる人や悲しんでいる人に、もっと優しい世の中になってほしいなぁ。

僕個人の意見としましては、『いじめられているほうにも原因がある』という認識はそもそも間違っていると思うんです。

 

誰にどう響くか、はたまた何も響かないかはわかりませんか、この記事ではとりあえず世の中の当たり前になりつつあるこの認識を完全に論破してみたいと思う。

 

『誰にも他人を責める権利はない』・『いじめられている人は全く自分を責める必要はない』ことを少しでもお分かりいただければ幸いです。

 

そもそもいじめの境界線って?

 

これは人によって違うので、一概にこうとは言えない。

過度な暴言やスキンシップは『いじめ』などと学校では体裁を立ててはいるが、こんなものも所詮は一般論の内のひとつ。

法律と同じく、言葉一つで全てのパターンや事例を擁護できるほど簡単な問題ではないのだ。

 

しかし、これだけは覚えておいていただきたい。

 

人間の心理からして、所詮『いじる』なんて言葉は『いじめ』を正当化しただけの虚言に過ぎない。

『いじめ』は良くないという認識から、それを行っている自分に自己嫌悪したくない。はたまた周りの人間や教師にそのことを悟られたくない。

 

そういった防衛心理から、人間は自己正当化論を心の中に勝手に作り出そうとする。

そのひとつが『いじる』という言葉なのである。

 

この『いじる』という言葉はなかなか厄介なもので。

世の中で言われている『正義』などと同じように、建前さえ正しければどんな残酷なことをしても許される、当事者は自分のしたことを許せるのである。

 

そもそも、境界線を探して踏み越えないようにと四苦八苦考えること自体がおかしい。

いじめに、境界線はない。

どんな言葉でもコミュニケーションでも、その子が傷つけばそれだけで『いじめ』という言葉に変わる。

 

また、逆にこの『いじめ』を被害者側の自己正当論ととるのであれば、加害者側がここまでその子を追い込んだ『行動心理』を追求しなければ、その倫理は成立しない。

 

つまりこの認識が、クレーマーや被害者面を被った真の加害者を世に平気でのさばらせてしまう大きな原因のひとつなのだ。

心理的に人を不幸に追いやるというのは、どんな罪よりも重罪なのである。

一生治ることのない『傷跡』なのだから。

 

『人の嫌がることをするな』・こんな薄っぺらい倫理なんかより有効的な『言葉自体の責任の追及』

 

試しに僕は、『いじめの首謀者』である人間に遠回しにだがこのような質問を投げかけたことがある。

 

「自分の欠点や顔のこと、家族のことを貶されたらどうする?」

 

答えはいくら綺麗ごとを唱えても、表情を見れば一目瞭然だ。

間違いなく、我を忘れて怒るだろう。

 

なぜ怒るのか?

自分のプライドを貶されたからだ。

自分にとって意に反するできごとが起きてしまったからだ。

 

もしこれが討論の席であれば、僕はここで当事者に問う。

 

なら君の唱えている『いじめられるほうにも原因がある』という持論はそもそもおかしい。

被害者側に原因があるのであれば、いま僕が君に言った言葉の責任も、君自身にあるということになる。

それで君が怒るのは、君の言った主張とは全く辻褄が合っていない。

君は持論を押し通すのであれば、今の言葉に対してむしろ『ごめんなさい』を返すべきだよ。

 

これが、『言葉の持つ残酷さ』と『責任力』なのである。

 

上記の反論が一例のように、言葉や持論というのは『自分の正義や考えを表す』だけの役割なのではない。

その言葉と持論が『自分の身に跳ねかえってきても良いよう』に常々覚悟をしていなくてはいけない。

 

『いじめられているほうにも原因がある』と思うのなら、『嫌な気持ちになっても相手を正しいとして自分を責めること』

それができる人間のみが、上記の主張の倫理を正当化できるのである。

そんな人間、この世にいませんけど。

 

もう一度言います、持論や主張を唱えるのであれば『自分の身に万が一反対に跳ね返ってきても怒らない』が前提条件。

それすらも理解していない人間が、安易に持論を持ったり唱えたりするべきではない。

 

これが、言葉の持つ『残酷さ』や『責任力』、『重み』なのである。

 

『いじめられているほうにも原因がある』という認識は、どうして根付いてしまったのか?

 

率直に申し上げましょう。

加害者側が『正義』を働いているからです。

被害者側が完全に悪いであろう行動を、加害者側が責めるからです。

 

一見正しいことをしている風に聞こえますよね?

そうです、正しいんです、『建前上』はね。

だからこそ、生徒たちに間違った認識を植え付け、果てや教師すらもいじめの加害者側を責めたりもしない。

 

だって、主張していることは正しいんですから。

これが……これがいじめだけではなく世の中の諸悪の権現なんです。

 

正論を使って相手をとことんまで追い詰め、精神的にも肉体的にもボロボロにして果てやお金までせしめる。

正義の建前があるので、誰も当事者を責めたりしない。

例えるのであれば、『人から10万円を取った泥棒を脅し、そいつから100万円』をせしめるのと一緒。

これが『正義』だといわれているんですよ、この世の中は。

 

恐喝や脅しが無くならないのも、これが原因。

正義の建前があるからです。

嫌な世の中でしょう、僕もそう思います。

しかし、これが現実なんです。

 

正義も悪もないんです、本当の意味で世の中が厳しいのはこれのせいです。

 

さて、少し話が逸れましたが、最後に『正義のいじめ』に対して僕なりの倫理をぶつけてこの記事を終えるとしましょうか。

 

いじめられているほうにも原因がある、確かにそうですね。

なぜなら、この世に完璧な人間はいないんですから。

でもね、だからといってそれを利用して『相手を不幸にしたり傷つけたりする』のが正しいなんて倫理は通らないんですよ。

だって、あなた自身も完璧な人間なんかじゃないでしょ。

でも、被害者側はそれを責めたりもしないでしょう?

いじめっていうのはね、被害者に悪意をぶつけるなんてそんな生易しいもんじゃない。

その人の弱点や悪い部分を大仰にあげつらって、正義の肩書の元その人を追い込んでいくこと。

全ての原因をその子に無理やりおし付けるってことなんです。

 

こんなことも分からない人間が7割もいるなんて、悲しいにもほどがあるでしょう。

間違った世の中、99人の黒に対して1人の白だとそりゃ浮いてしまいますよね……。

 

いじめられている子が大人になってからトラウマを残し、生涯ずっと自分のことを責めないだろうか……実際、僕自身がこうして大人になってからもそうなんです。

今でも頻繁に夢に見たり、気分が悪くなったり、自己嫌悪に陥ったり。

こんな気持ちを、もう絶対誰にも残してほしくないですね。

 

いじめって、一生かけても消えない『傷跡』を相手の顔に残すのと一緒なんです。

その上解決策も無いなんて……残酷すぎますよ、ほんと。

まさに今、いじめに悩んでいる方はぜひ他の記事もご覧になってみてください。

なにかのご参考になるかもしれません。

シェアしてくださると元気が出ます

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする