学校の『集団社会』に『個性』を求めるという矛盾した教育って何なの?

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こんなことを掲げている教育委員会やPTAがいますけど、そろそろ自分たちの言っていることが矛盾していることに気付くべきだろう。

そもそも『集団社会』と『個性』というのは対極の存在に等しい。

片方立てればもう片方が立たず、二律背反に位置するものだ。

口上だけのきれいごとではなく、そろそろどっちの方針でいくかはっきりしないとますます社会に腐ったみかんが溢れるだけだというのに。

どちらかを推進すればまだ学校という社会に救いようはあると思う。だが現状のまま両方を立てようとするからこそ、そこに亀裂が生じる。

その亀裂が生んだ悲惨な結果が以下の事例というわけだ。

『いじめを無くそう・いじめはダメ』……なら「個性」なんてくだらない理想を無くせよ

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これを聞くたびに毎度心の中でこう突っ込んでいる。

集団社会に個性なんてかぶせりゃ『歪み』ができて当然だろう。

集団でいる中で個性同士がぶつかるんだから、いじめなんて行為が起こることは普通に考えればわかることだ。

集団社会にするならするで、個性なんてものを一切抹消すればいいだけの話。

学校の教育に背いたものは、義務なんて関係無しに放り出すとか。

なまじ個性なんてものを許容するから、教師や親も含め、腐ったみかんをほったらかしにするわけだ。

『個性』という紋所が、全ての歪みを素通りできてしまっている。

と、ここまでが集団社会を立てる場合の話。

『いじめは弱肉強食・いじめられる奴に問題がある』……なら「集団社会」なんてくだらない理想を無くせよ

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そりゃ十人十色の人間をひとつの場所に集めれば何か歪みが起こるのは必然です。

ならば一言、「集団社会なんてなけりゃどうにか解決できる問題なんだよ」

個性を伸ばすのであれば、それを抑制してしまう集団社会は必要ない。

実際、アメリカではそういう教育方針を掲げているところもあります。

スポーツでも勉強でも、自分のやりたいことを好きなようにやればいい。

嫌いなことに時間を割いている間がもったいないし、そうすれば優劣なんてものを感じる必要も無いでしょう。

つまり、『個性』をとことんまで生かすというのは「他人に一切干渉しない」ということです。

頭が悪くても運動ができなくても、その特化した能力で社会に貢献できれば、僕は十分だと思いますけどね。

要はお金さえ儲ければいいわけですから。

つまりはどういうことか? 綺麗ごとを抹消して問題と向き合え

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僕は義務教育なんてものは必要ないと思っています。

はっきり言って勉強なんてものは人が言わなくてもやる子はちゃんとやるんですよ。

外国じゃあるまいし、日本には塾だの公門だの学校のほかに学べる場所はたくさんありますからね。

世の中にもっと腐ったみかんが増えるんじゃないかって危惧する人もいますけど、よく考えてみてください。

どうしてそいつらを助けるために良識的ないい子が『いじめ』なんてものの犠牲にならなきゃいけないんですか。

つまり、僕からすれば学校という場所は『腐ったみかんをこれ以上腐らせなくするために良識人を使って防腐する場所』ということです。

不良を更生させるとか、そんなことに時間を使うくらいならちゃんと社会に貢献している人間に少しでもご褒美をあげろと言いたい。

オリンピックなんて開催するくらいなら東北の被災者や待機児童にその予算を割けよと言いたい。

まぁ、それでもいじめを受けている弱者の中には自分に言い訳して全てを人のせいにする卑怯者もいますけどね。

この辺のさじ加減が非常に難しいところ。

結局は己の価値観信じて生きていくしかないわけです。

学校なんて社会は矛盾だらけです、もしあなたがいま理不尽な目に遭っているのであれば、そんなくだらないところ行かなくても僕はいいと思いますよ。

長々と語りましたが、以上です。

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